アイルランド・日本関係の歴史
アイルランドの人々は長年にわたって日本を訪れ、近代日本への重要な貢献を果たすとともに、それぞれに小さなアイルランドを日本に運んできました。ホッケーがアイルランドから日本に紹介されたこと、銀座がアイルランド人によって設計されたことをご存知ですか? 岩倉使節団がダブリンでギネスビールを飲んだこと、小泉八雲の日本名で知られるラフカディオ・ハーンがアイルランド人であることをご存知ですか? ここでは、アイルランドの人々が日本のために果たしてきた多くの歴史的貢献についてご紹介します。
ロバート・ジャンセン(1704年に九州に滞在したアイルランド人船乗り)
アイルランド人による日本訪問の最も古い記録は、1704年7月にアイルランド人船乗りのロバート・ジャンセンが九州の沖合で捕らえられたことに遡ります。ウォーターフォード出身のジャンセンは、5人の仲間とともにフィリピンのオランダ東インド会社から逃げ出し、小さな船で広東を目指していました。6人は沖合の小島の近くで薩摩藩によって捕らえられ、鹿児島で数日間拘束された後、長崎に送られました。当時、日本は鎖国によって外の世界への扉を閉ざしていました。ジャンセン一行はポルトガル人宣教師ではないかとの疑いをかけられて拘束が続きましたが、1704年11月にようやく釈放され、オランダ領東インドのバタヴィア(現在のジャカルタ)に向かうオランダ船に乗ることを許されました。
岩倉使節団(1872年12月3日)
有名な岩倉使節団は、1871年から1873年にかけて欧州と米国を訪問しました。岩倉具視率いる同使節団には、明治政府の近代化計画の下で最新の技術や実践教育について意欲的に学ぼうとする100人を超える政府専門家や留学生が参加していました。使節団は1872年8月17日に米国からリバプールに到着し、1872年12月16日まで英国に滞在しました。この間、使節団の副使であった木戸孝允とその他3人のメンバーが、欧州の「グランドツアー」の一環として1872年12月3日にダブリンを訪れました。彼らがアイルランドにどのような印象を持ったかはよく分かっていませんが、彼らが有名なギネス醸造所を訪れてギネスビールを味見したことは分かっています(現代の日本から毎年アイルランドを訪れる数千人の観光客の皆さんと同じように)。このダブリン訪問は、日本政府の代表者による初めてのアイルランド訪問であった可能性があります。
ラフカディオ・ハーン(1850年~1904年)
ラフカディオ・パトリック・ハーン、日本名・小泉八雲は、日本で最もよく知られたアイルランド人かもしれません。ハーンは1850年にギリシャで生まれ、この生地にちなんでラフカディオと名付けられました。父は英国陸軍の軍医を務めるアイルランド人、母はギリシャ人でした。ハーンは幼い頃にダブリンに移住し、叔母に育てられました。英国の学校で教育を受けた後、米国に移住してジャーナリスト、翻訳家、作家となり、エキゾチックかつ死を思わせるような作風で活躍しました。1890年に雑誌の仕事で初めて日本を訪れ、この国で人生の残りの14年間を過ごすことになりました。日本人女性と結婚し、小泉八雲の名前で日本国籍を取得して、松江の学校で教鞭を執ったほか、東京帝国大学の英文学講師を務めました。ハーンは、日本に関する12冊の著書で今日でもよく知られています。最初の、そしておそらく最も有名な作品である『知られぬ日本の面影』は1894年に出版されました。最後の作品である『日本―一つの解明』は没後の1905年に出版されました。この作品は、封建社会から急速に近代化する明治国家へと変容した日本に関する歴史的な分析でした。そこには、ハーンのすべての作品においてそうであるように、哀切の感情が一貫して響いています。それは、明治の近代化の過程で損なわれつつあるとハーンが感じた日本、すなわち「古い日本」の風習や慣行の喪失に対する哀切です。ハーンの作品が今もなお広く賞賛されているのは、この「古い日本」に対するハーンの共感と理解によるのかもしれません。西洋における日本と日本文化の知識にハーンが多大な貢献を果たしたことは間違いありません。1987年には、ハーン自身の著書とハーンに関する著書を取り揃えた図書室が東京のアイルランド大使館に開設されました。2004年にはハーンの没後100年を記念して国際シンポジウム等の多数のイベントが開催され、特別記念切手も発行されました。
初代「君が代」の作曲者―ジョン・ウィリアム・フェントン(1828年~不詳)
日本の国歌「君が代」の最初の版は、アイルランド人のジョン・ウィリアム・フェントンによって作曲されました。フェントンは1828年にコーク県キンセールで生まれ、1868年(明治元年)に英国陸軍の軍楽隊長として来日しました。翌年、フェントンは横浜の妙香寺で薩摩藩の兵士を対象に日本における吹奏楽の指導を開始しました。この楽団は日本初の軍楽隊となり、薩摩藩を含む4つの藩で構成される軍隊が明治天皇の観閲を受けた際に、公の場で初めての演奏を行いました。この行事のためにフェントンは和歌「君が代」に付ける式典旋律を急遽作曲し、これは次第に国歌として受け入れられるようになりました。ただし、現在の国歌はフェントンのオリジナル版とは異なります。フェントンは日本吹奏楽の父とも呼ばれており、その日本に対する音楽の貢献を称えられています。
日本ホッケーの父―ウィリアム・トーマス・グレー(1875年~1968年)
アイルランド人は大のスポーツ好きですが、アイルランド人牧師のウィリアム・トーマス・グレーは、1906年にホッケーを日本に紹介しました。1875年生まれのグレーは1905年にアイルランドを発ち、宣教師として東京に向かいました。翌年に日本に到着すると、慶応大学で教壇に立ちました。グレーは、ダブリンのトリニティ・カレッジ在学中にホッケーチームのメンバーとして活躍した熱心なスポーツマンでした。グレーは1906年から慶応の学生たちにホッケー競技を教えるようになり、これを端緒として日本で近代スポーツとしてのホッケーが発展しました。グレーは慶応で12年間を過ごした後アイルランドに帰国しました。1968年に死去すると、ダブリンで埋葬されました。グレーは「慶応と日本のホッケーの父」として今なお高い尊敬を集めています。慶応ホッケー部の100周年を翌年に控えた2005年には、慶応の学生たちがダブリンを訪れてグレーの墓参りをし、記念の銘板を墓に設置しました。また、トリニティ・カレッジやその他のアイルランドの大学と親善試合が行われました。
銀座を設計した男―トーマス・ジェームズ・ウォーターズ(1842年~1898年)
東京・銀座は輝く街灯、高級品店、そして高い地価で知られていますが、銀座の現在の街並みがアイルランド人によって設計されたことはご存知ですか? その男、トーマス・ジェームズ・ウォーターズは1842年にオファリー県バーで生まれ、1864年に来日し、1877年まで日本に滞在しました。当初は九州で薩摩藩の技師として働いた後、大阪に移り、明治政府の造幣寮を設計しました。この成功によってウォーターズは東京に招かれ、竹橋陣営や名高い銀座煉瓦街等のより大規模な建設プロジェクトに携わることになりました。銀座は1872年の火災で荒れ果ててしまったため、政府は新しい近代的な街並みの設計と建設をウォーターズに依頼しました。その結果として生まれた碁盤の目状の計画は現在に受け継がれています。また、アイルランドの首都ダブリンの建築から影響を受けたジョージアン様式の煉瓦造2階建ての建物群により、銀座は伝統的な江戸の町から明治の「文明開化」の象徴へと変貌を遂げました。ウォーターズは、日本の近代化に貢献した熟練の技師兼建築家として今日でもその名を知られています。
チャールズ・ディッキンソン・ウェスト(1847年~1908年)
アイルランド人による日本の工学への貢献は、長年にわたる顕著な功績を誇ります。最もよく知られているのは、明治時代に東京大学で機械および造船工学の専門家として尊敬を集めたチャールズ・ディッキンソン・ウェストです。ウェストは1847年にダブリンで生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジで学びました。1882年8月、35歳になったウェストは明治政府からお雇い外国人として招かれ、工部大学校で蒸気機関構造、機械製図、工学、造船学、造船製図の教壇に立ちました。親しみやすく気さくなウェストは、優秀な教師として学生の尊敬を集めました。その後工部大学校は他の大学と合併して東京帝国大学工科大学となりましたが、ウェストはここでも引き続き機械工学と造船学を教えました。ウェストは25年間を日本で過ごし、1908年1月10日に肺炎で死去しました。東京大学のキャンパスにはウェストの胸像が設置されています。また、ウェストの墓は長く日本機械学会によって管理された後、2006年秋から東京大学の管理の下にあります。
宣教師兼教育者たち
明治の初め以来、数百人のアイルランド人修道女や司祭が日本で生活し、働き、教えてきました。これらの人々はとりわけ教育の分野で価値ある貢献を果たし、何世代もの日本の若者たちが過去130年間にわたってアイルランド人宣教師による教育を受けてきました。一部のアイルランド人修道女や司祭は、第2次世界大戦中も日本に残って自身のコミュニティに安らぎを届ける道を選びました。終戦直後には多数のアイルランド人宣教師が来日し、「同胞」である日本人がその社会を再建する長い過程を歩み始めるにあたってともに仕事をしました。こうした人々の仕事は、日本各地で今も続いています。